藤原新也 乳の海

先々週に古本屋で見つけた藤原新也氏の「沈思彷徨」を読んで、本棚を探して週末に、「乳の海」と「アメリカ」を読み直していた。

「乳の海」は1989年の発行で、当時の大スターであった松田聖子についてのエッセイの章と、「東京漂流」を読んで藤原新也氏の所へ押しかけてきた筑波大学の地方出身の新入学生一年生の透君の話で、彼の母親の子供への過剰干渉と、その干渉から透君が逃げているつもりの試行錯誤している行動が書かれている。

松田聖子の場合は、彼女をスターにする為の作られ方(今で言うとマーケテングか)
を通して、当時の聴衆の最大公約数的な嗜好と、透君の母親とのマザコンの関係が80年代を表現していて、80年代は母性の時代だった。と言うのが僕の一言での本の説明。

更に、この本のプロローグで藤原新也氏が骨董品店で見つけたマリア像の様に、像の中が空洞で、内側には刃が取り付けれて、その像の中に異教徒を閉じ込めて、風車の力でゆっくりマリア像を閉じる事で刺殺する器械を紹介していて、この母性の恐怖を示している。

個人的には、30年前に読んだ時は、透君を自分自身と自分の母親との関係と比較して、ここまで酷くは無いものの、母親からの干渉よりの逃避、自分自身のマザコン性の否定と、マスコミの作り上げた流行と言うのが結局、に走ったのだけど、30年たって読み直してみると、透君と僕の子供、透君の母親と妻を比較して読んでしまう事が最初に読んだ時よりの時間を感じてしまった。

マスコミが作り上げた流行は、結局、母親が子供に対してお仕着せをしている事と変わらない事を藤原新也氏は、この時点で既に分かっていた事と、結婚してから、妻が買う服しか着無くなった事は、妻に対して母親としての役割を求めていたのかなと思った再読した感想。

こんな事を書いていると、「乳の海」とか「アメリカ」を読んでいた時期が遠い昔の様に思えたけど、本当に遠い昔なんだろうな。

乳の海 (朝日文芸文庫)

乳の海 (朝日文芸文庫)