村上春樹 1Q84 Book3

1Q84 BOOK 3

本屋に予約していたので、僕は会社帰りの金曜日の夜に書店へ取りに行って、結局、週末に読んでしまった。

読後感は、何でBook 3まで書いたのかな? と言う印象がまず残った。

ネタバレのになってしまうのだけど、天吾と青豆のすれ違いのラブ・ストーリーが物語の全体を引っ張っていて、これがメイン・ストーリの様なのだけど、最後が分かりやすいハッピー・エンドになっている事と、メイン以外のストーリーも分かり易くなっている事が、今までの村上春樹の小説に比べて違う。

Book 1、2から、天吾も青豆も家庭環境にはちょっとした問題があった為、親との関係が希薄な孤独的な男女の話なのだけど、大学より都会に出てきて一人で住んでいる普通の若者と変わらない孤独的な若者で、都会で生活している大多数の若者が共感出来る感じは今までの小説と同じ。

僕も僕の友人も「風の歌を聴け」が出版された時代からの愛読者で、都会でひとり暮らしをしているライフ・スタイルの人が多かったし。 ライフ・スタイルって最近使われていない事に気が付いたけど、あの頃はこの言葉がありました。

生活と言うと生活感を連想してしまって、村上春樹の小説には生活感が無いのが氏の小説の特徴の一つと言われていた事を思い出しました。

最初の作品が出版された頃に「やっと自分達の言葉で書かれた、自分達の時代の小説が出てきた」と表現した友人もいたし、村上春樹以前の日本の私小説の伝統である「家」の意識が無い事も思い出しました。

そんな都会で一人で生活する若者の孤独感の逃避として、「恋愛」と「集団」があって、「集団」は何らかのコミュニティに入る事によって孤独感を解消され方向に走る人もいて、村上春樹の学生時代は「政治的集団」が代表例で、その後は「宗教的集団」が代表例と思う。 だから村上春樹は「オウム事件」に拘りをもったと思う。

本の話に戻って、1Q84のBook 1と2で、「政治的集団」も「宗教的集団」も本質的に同じ様に書かれていたのは、村上春樹が本質は同じであると考えていたからと思う。

村上春樹の昔の作品を読んでいて、本人は学生運動に対する拒絶感を持っていた筈だけど、オウム事件での「宗教的集団」が、昔の「政治的集団」に 置き換わって孤独な若者を集めている事を知って、一連の作品が書かれたと僕は思っているので。

1Q84では、その政治的集団、宗教的集団に参加した人達の結末とか、その団体の構成員を小説の中に登場させる事で、この解決策を選んだ人の結果と、構成員の性格を描いている。

そんな風に考えると、天吾の父親NHKの集金人の姿は、孤独感を仕事で解決している人のカリカチェアに思えるし、Book3の記述で意外に分量を占めている牛河の話は家庭に孤独感の救済を求めたが得られなかった人の結末?

牛河の話は別としても、村上春樹の小説で円満な家庭生活は出てこないので、このBook3の結末の天吾と青豆の恋愛の結末は意外だった。

村上春樹の小説の魅力は何かが欠落していて、それを熱心に探している訳でも無いけど、事件が発生して本当はその欠落感を探している事が分かり、探す不安定な状態が描かれている事が魅力なのだけで、Book 3の読後感として「なんで?」と思った。

小説のテーマとして、このBook 3まで発刊した方が分かり易くなっている事は分かるのだけど、村上春樹が年をとって作者に対して親切になったのか、誤読される事が嫌になったのか?

Book 1、2の発刊直後のインタビューで、間違った物語で宗教に走った人に「正しい物語」で救いたいと言う様な記事を読んだ記憶があるけど、正しい物語」にす る為にBook 3を発表したのかな?

この作品のもう一つの処女懐妊、ふかえりが媒体だったと言うストーリも、プリミテブな正しい宗教観とも思えるし、もう一度、読み直しながら、その辺りを考えてみようと思っている。