色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

日曜日の午後に新宿の紀伊国屋書店で購入して、帰りの京王線の電車の中で冒頭の一文、「大学二年生の七月から、翌年の一月にかけて。多崎つくるはほとんど死ぬことだけを考えて生きてきた」を読んで意外な気がして本を閉じてしまった。

僕は過去の作品から、恐らく著者の実体験として、高校時代に親友か彼女が自殺する経験をして、その喪失感が全ての作品の奥底に流れていると感じている。だけど、その喪失感は自殺衝動とは全く正反対の静的な衝動であると思っているからだ。

この事は家に帰り、夕食後、最初の第一章を読み終えた時に、やはり自殺衝動では無く、流れる様に機械的な孤独な生活をする事で緩慢な自殺を表現される様に、受け身的な自己を抹殺していた事だった。

その喪失の理由は高校時代からの男性3名、女性2名のグループから、いきなり主人公が絶交される事で、過去の高校時代のこのグループの親密感と、理由が不明なままグループから絶交された経緯が語られる。

第二章に入り、第一章の内容は2歳年上の38歳の彼女との4回目のデートの恵比寿のバーで語られる内容と分り、80年代の村上春樹だなぁと思った。

ここからの小説の展開は僕にとっては意外だった。 その絶交宣言の理由が不明のまま、16年間の年月を経て主人公が友人に会う事だった。 いままでの小説ではこういった主人公の影響を与えた重要な事件を、謎のまま、或はその概略を暗示する程度で、その謎解きより、それに依ってもたらされた喪失感がテーマとして描かれていたので、その事件の真相探しで小説が展開するとは考えていなかった。

ここで重要な役割をするのが2歳年上の彼女の役割で、今回の主人公の多崎つくるの性格描写として、今までの多くの小説の主人公と同じく孤独ではあるが、専門的な職業を楽しんで生活していて、金銭的には裕福であり、女性関係も適当にある役であるが、今回の36歳と言う年齢も小説の中ではっきりと年齢が書かれていなければ、主人公の描写より20代後半~30代前半の青年と思ってしまうのだが、36才と明確に年齢が書かれているので、人によっては青年男性と言うより中年男性と解してしまうだろう。

2歳年上の彼女は大手旅行会社に勤める典型的なキャリア・ウーマン。キャリア・ウーマンって表現は古いけど、仕事が出来て、活動的な独身女性。

話しが長くなりましたが、この彼女が彼のトラウマを聞いて、主人公の出身高校とその四人の友人の名前からテキパキと現在の勤務先と住所を調べてしまうのが、女性にリードされる村上春樹の小説らしい展開。

この後、高校時代の友人に会う為に旅行に出て絶交した理由を調べてしまう。 これが小説の題の「巡礼」と思うのだけど、こんな風に謎が分かってしまう小説の展開が意外でした。絶交された理由についての謎解きの部分は、今までの村上春樹の小説で、再三、語られてきた事と同じと思う。感受性の強い少女への憧れ、それと正反対の女性に大しても愛情を抱いています。性欲とストイックな恋愛感情、ナイーブな感情。

最後の章は余分と思う。 「巡礼の旅」を終えて、夜中に二歳年上の彼女に電話する描写は、最後に小説を通俗的にしていると思うのだけど。二歳年上の彼女に50代の年上の恋人?がいる事を描写も含めて。 だけど、「国境の南、太陽の西」と同じく、過去の女性への感情に対してケリを付けて、今の彼女へ縋り付くエンデングにする事で。これは私小説家である村上春樹の奥さんへ対する謝罪と思うのですけど。