村上春樹 イエスタデイ

電車の中の中吊り広告で文藝春秋の最新号に村上春樹の短編が掲載されている事を知り、図書館で読みました。 購入しても良かったのですが、文藝春秋の他の記事を見て、購入する気にならず、短編であれば30分くらいで読めるかなと思って。

早稲田大学2年生の学生がアルバイト先で知り合った友人の話を描いた話で、時代は1970年代の学生運動の時代の後の20歳の学生(予備校生)は、こんな感じで空虚な、革命とか大きな事をするだけの気概も無く、流行に対しても興味を持つ事が無い時代の学生生活を描いた作品。

小説の途中で、当時は携帯電話が無い事をわざわざ説明していて、静かな図書館で声を出して笑ってしまいました。

この小説のモチーフは、過去の作品で何回が出てきましたが、友人とその恋人が似合いのカップル、友情に基づいた性別を超えた親友同士でありながら、若い男と女と言う性別がその関係の最大の障害である姿。 性的な関係、性的な行為は必要ないにも関わらず、あるいは性的であることは友情とは別の次元の問題として割り切って考える事が出来れば(時々、村上春樹の小説に性をオープンに、または性的に極めてオープンな主人公が描かれるのは、性をスポーツと同等の、人間関係において些細な事である事を表現していると思っています)、友情を維持出来るのに、一般的な男と女である事が不幸を招いてしまう事は、ゲイとかレズのカップルの不幸を描いた映画とか小説と同じ様に、不幸を描写した小説と思います。

ノルウェイの森」が「100%の恋愛小説」のコピーを付けていたのは逆説であって、村上春樹の小説で描かれている男女は、友情(親友間に近い友情)と性欲で構成されていて、「恋愛」という関係は存在しない事を表現したかったと私は読んでいます。 

村上春樹の小説の主人公は、いつもその関係の傍観者として描かれていますね。 決してその関係に割り込まず(割り込む事が出来ないと分かっているから)、その関係に嫉妬しながらも、その関係が不幸な関係である事を知っている事と達観して。