村上春樹 1Q84 Book1, 2 再読

結局、連休明けから1Q84のBook1と2を読み直していた。

やはり1Q84はBook2で終わった方が村上春樹らしいと思った。物語が完結せずに中途半端に含みを持たせたまま終わらせる事が、意図的かどうか分からないが、物語にリアリティを加えているので。

読み直して気が付いた事は、

1. Book1がストーリ優先で小説が進行していて状況描写が少ない事に対して、Book2の方は状況描写が細かいところまで書かれている。

2. ストーリーを誤解していた箇所が合って、

1984 青豆が住んでいた世界(警官の銃は回転式、「あけぼの」の事件が無かった)
1Q84 この小説に出てくる天吾も含めた、青豆以外の人が住んでいる世界(「あけぼの」の事件があり、警官の銃はセミ・オートマチック)

1984の世界と1Q84の世界の違いは月が2つある事では無くて、「あけぼの」の事件の有無と、それに拠って?警官の銃が違う事。 天吾は1Q84の世界に住んでいたので、青豆が首都高の階段を下りて、1Q84の世界へ入り込まなければすれ違わなかった。この当りの物語の展開の方法が村上春樹っぽい。

「さきがけ」は、あゆみの暗殺、天吾の年上の人妻のガールフレンドの抹殺(?)を行い、リーダーは自分の娘である「ふかえり」、それ以外の少女へ暴行を行っている事で、一見「邪悪なるもの」として小説の中で存在し、その表面的な存在がリーダーであり、深層はリトル・ピープル。 その表面的なリーダーを暗殺したのが青豆で、裏のリトル・ピープルを「ふかえり」の書いた「空気さなぎ」の小説のリライトをする事によって表面に出したのが天吾。この辺りの登場人物の絡みかたも村上春樹的。

青豆は最後に1984に戻ろうとするが出来ずに自殺?

ここまでの天吾と青豆を共通のストーリーで交互の章で描きながらも、青豆の自殺を含めた結末を書かない事により、読者にとっては中途半端さ、フラストレーションを抱える、これが現実社会へのリアリティを増加させている。

「邪悪なもの」の描き方も単純な懲悪で無く、青豆がリーダーを暗殺する時のリーダーに暗殺される事を待っている様に言わせる事で単純に「悪」としての位置付けで無く、含みを持たせている。

Book3を読み直してから気が付いたのが、青豆の性生活ってBook1、2でのエピソードとBook3での彼女のイメージとずいぶん違っているよな。 Book1、2での娼婦の様なエピソードと、Book3の処女懐妊を連想する処女性を意図的に対比させているのかもしれない。