1984 India

1984年2月17日

朝、駅に行きジャイサルメールまでの列車の時刻を調べたが、直接行く列車は無く、切符も途中のジョドプル(Jodpur)までしか購入出来なかった(17ルビー)。 ジョドプルまでは100Km位なのだけど夜行列車があり、そこで乗り換える事が分かった。
駅から一度戻り、「地球の歩き方」で紹介されていた「Tai Inn」と言うレストランへ一人で行き昼食を食べたが、ここでインドに着いて初めて肉(マトン)のカレーがあった(タリが15R、ラッシーが4R)。 インドに着いてから安食堂ではないけど、普通の外人ツーリスト向けの食堂に入っていたが肉のカレーはメニューに無く、メニューが置いてある店でもベジタブル・カレーかチーズのカレー。 もう少しグレードを落として、普通のインド人が入っている食堂では、何も頼まなくても定食の様に野菜のカレーと豆のカレーとチャパティかライスが、黙って出てくるパターンだったので肉のカレーを食べる機会は無かった。

その後、ジャイプルの市街地の中心にあるシティ・パレスへ行こうとリキシャに乗ったが、またチャイを飲もうと道端で勝手に停められてしまう。チャイを飲みながら少し話しをして、象牙の薄く切ったものに絵を描いたものを作っている工房へ連れて行かれる。 工房の中で展示されている作品は精密な作品。 この工房の中には白人の女性が居て、話をしているとヨーロッパから来て、この工房で作品を作っていると言う。 リキシャにつれてこられた雰囲気から押し売り的な販売をしている店かと思ったが、観光客相手の押し売り的な雰囲気は無く、フレンドリーな店だった。

実は象牙工房からシティ・パレスは直ぐ近くの場所で、入場料は2Rを支払ってシティ・パレスの中にはいる。 パレスの内部には色々な博物館があると聞いていたが、博物館に入らずに中庭で座っていた。 ジャイプルをピンク・シティと言うのは昔、外国からの訪問者を建物をピンクに塗って歓迎した事から始まって、今でも観光の為、建物をピンクに塗っているのが名前の由来で、その中心部がこのシティ・パレスなのだけど、外部からパレスの壁を見た限りではピンク色も色褪せていて、ピンクの言葉のイメージの持つ華やかさ、活き活きした感じを受けず、「たしかに白でも茶色でも無くピンク色だな」程度の感想であったが、広場の内壁と内部の建物の壁の色は朱色に近い鮮やかな本当のピンク色で、澄み切った青空とのコントラストが芸術的だった。

 
その後、アイスクリームを売っているのを見つけ(2ルビー)、食べながらホテルに戻って荷物を取り駅に向かう。 途中で酒屋を見つけウィスキーを買う(37.5ルビー!)。 駅でジョドプルまでの夜行列車を見つけて、買ったウイスキーを開けて眠る。 このジョドプルまでの夜行列車は小綺麗な車両だった。


1984年2月18日

電車は朝5時半にジョドプル駅に付く。 駅はまだ薄暗く、駅の電気も点いたり消えたりしていて寂れた雰囲気。 ジャイサルメールの帰りにもジョドプルを通る事になるので、そのままジャイサルメール行きの列車を探し、乗換える。

この列車は各駅停車の普通車でインド人と一緒の4人掛けのボックスシートに空席を見つけ席を確保出来た。この線路の終点のジャイサルメールまでタール砂漠の真ん中を延々300KM走る事になる。 

列車の出発を待っている間に、インド人の祈祷師(?)が車室に入ってきて、僕の額の真ん中に赤いしるしをつけられバクシーシ(喜捨)を要求されたので仕方なく1ルビーを払った。

その後列車は動き出す。  市街地を離れた時に太陽が水平線から完全に姿を現した。 列車から見る風景も木がまばらに生えた風景から、低い潅木しか生えていない風景になり、徐々に潅木の数も減少していく砂漠の風景の変化を眺めていた。 ジャイサルメールに近づくにつれて潅木も無い砂の砂漠の風景になり、線路脇の線路から直ぐ近くの場所にところどころ小さなオアシスがあり、サリーを着た女性が本当に頭に篭を載せて水を運んでいて、列車がゆっくり通過する時に、彼女達は、彼女達の連れた子供達は列車を見ている。 単調な砂漠の風景の中で、ラジャースタン地方のサリーはカラフルで単調で強烈の色彩の中で一際目を引き、清涼剤の様に感じられる。
電車の中では相変わらずインド人から英語で話しかけられたりしていて、日本の経済についてとか難しい話題を聞かれる。 彼が英語で質問して、僕が答えるをそれを回りのインド人へ説明していて、僕が話した時間より彼がインド人へ話している時間の方が長いのは、彼が英語を話せる事を自慢したいのかなと思ってします。 
各駅停車の普通車は途中の駅に停まるたびに物売りがやってくるのだけど、停車時間も長い駅もあり、インド人に誘われて列車から降りて、駅の外のチャイの店へ行く。 店と言っても地面に釜を置いているだけなのどチャイを奢ってもらった。 ここではチャイは素焼きの小さなカップで出てくるのだけど、飲み終わったらその素焼きのチャイのカップは赤茶けた地面にぶつけて割るのが流儀と言う事も初めて知った。 素焼きのカップは、ここの土を焼いて作られていて、チャイを飲むのに利用されると言う役目を終わったら、また自然に戻す。
f:id:Kaz-Suzuki:20111011071651j:image

夕方にジャイサルメールにつき、「地球の歩き方」で、「ここでしか酒が飲めない」と書かれていた州営のホテル「Moomal Turist Bungalow」に泊まる。 もちろん宿泊費を節約する為、大部屋のドミトリーを選んだのだけど、このドミトリーは旅行者だけで無く、ホテルで働いているボーイやウェイターも泊まっている部屋だった。僕が泊まった時は他に外国人旅行者は泊まっていなかったのだけど、壁にボブ・マーリーのポスターが貼ってあった。
しばらくしたら夕立があった、窓から何も無い砂漠で遠くで落ちる雷を見ていると、ジミー・クリフの「Many Reviers To Cross」が偶然流れていてきて、僕もいくつの川を越えて、何でこんな砂漠の真ん中の街にきたのかなとか、何を求めて旅をしているのかなとかを考えていた。 ここからパキスタンとの国境までは、後、100Kmしか無い。
ホテルのマネージャーに話しかけられて、彼は日本語を勉強したがっていた。

Moomal Tourist Bungalow



1984年2月19日

インドに来てから初めて夢を見る。 なぜか高円寺のアパートに居て、普段の日常をしている夢だった。
ジャイサルメールの中心部はジャイプルと同じ様に昔からの城壁で囲まれた街で、まずはこの城壁の中(Citadel)へ行く。
f:id:Kaz-Suzuki:20111011071653j:image
f:id:Kaz-Suzuki:20111011071654j:image
f:id:Kaz-Suzuki:20111011071656j:image
f:id:Kaz-Suzuki:20111011071657j:image
一人で見学していると、10人前後のインド人の団体客から話しかけられて、一緒に内部を案内してもらう。 その後、市街地から少し離れたオアシスの"Gidisagar Tank"に連れてってもらう。 このオアシスがタール砂漠で最大のオアシスだそうだ。 団体の中に一人だけおとなしいインド人が居て、彼の英語が一番分かり易かったので話をしていたが彼は政府の役人といっていた。
f:id:Kaz-Suzuki:20111011071652j:image
f:id:Kaz-Suzuki:20111011071700j:image
f:id:Kaz-Suzuki:20111011071701j:image
f:id:Kaz-Suzuki:20111011071702j:image
f:id:Kaz-Suzuki:20111011071706j:image
"Gidisagar Tank"を見た後、インド人の団体客から解放されてホテルへ戻る途中の丘の上に、ジャイプルで会った30歳くらいの一人旅をしている女性に再会した。 チャリスを貰い、一緒に楽しむ。 きめながら見た砂漠の風景は美しかった。 話しをしていると、彼女は同じ岐阜出身の人で、ビバと名前でラジオのディスクジョッキーをしていた人で、僕も中学生時代に彼女のラジオ番組を聴いていた事があり驚く。
市の中心部へ戻り、ツーリスト・インフォメーション・センターへ行くと「地球の歩き方」にも書いてあるバグワン・シン(Bhagwan Singh)と言う有名なガイド? 案内人?が居てバーングと言うマリファナ・ジュースを飲んでいる。 彼にキャメル・ツアーの予約をしてもらった。
彼女と別れ、ホテルのドミトリーに帰ると、ドミトリーのインド人達から、昼間にビバさんと一緒にいたのを見ていた様で、彼女とジキジキをしたかどうかをうるさく聞かれた。その後、部屋にいると彼らに食堂に呼び出され、インドのラムをおごってもらう。 大変まろやかで美味しい。
宴会の最後の方で、綺麗なサリーを着た女性がやってきて、彼女を奢ってくれると言うが、僕は既に酔っ払ってダウン。残念だと思ったが、今になるとしなくて良かったと思う。

Moomal Turist Bungalow